展覧会場には、
永遠なる人民の太陽
当時、日本帝国主義の軍人占領下に置かれていた朝鮮は一つの監獄も同様であった。青雲の志を遂げなかった愛国志士たちは、「この国を救う将軍はいないのか」と胸を叩きながら痛嘆し、母国語まで奪われた亡国の民は、生きるを道を求めてなじみのない他郷へと散って行った。
国を救う領袖を渇望してやまなかったこの時期に革命の道を踏み出した主席は、打倒帝国主義同盟の結成(1926. 10.17.)によって朝鮮革命の新しい出発を宣言し、広範な労働者、農民、青年・学生を一つに結集し彼らを反日愛国闘争に立ち上がらせた。主席は、自国の革命はあくまでも自分自身が責任を持って自主的、創造的に行わなければならないという不滅のチュチェ思想を創始し、朝鮮革命の進路を明確に示した。
主席は、受難者の血の涙と亡国の恥辱によっていろどられた朝鮮民族の消えかかっていた魂に再生の滋養分を与えた太陽であった。
青年共産主義者たちは、主席を朝鮮の夜空に昇って三千里の山河を照らす「朝鮮の星」として称える歌謡をつくって歌いながら仰ぎ、朝鮮の運命を救う救世主、民族の太陽として高く仰いだ。
20年間にわたる抗日革命を勝利に導き、朝鮮民族の一縷の願いである祖国解放を実現した主席は1945年10月14日、人民と初めて対面した。同日、主席は力のある人は力で、知識のある人は知識で、金のある人は金で富強祖国を建設しようと呼びかけた。
詩人の李燦は「将軍は遮ることのできないわれわれの光、将軍は遮ることのできないわれわれの太陽」と称揚し、人民は「民族の太陽
しかし、歴史の浅い共和国は再び敵の武力侵攻によって試練を経なければならなかった。だが、主席がおられたがゆえに朝鮮人民は、3年間の祖国解放戦争を勝利のうちに締めくくり、祖国の自由と独立を立派に守っただけでなく、すべてが破壊され廃墟と化したこの地に社会主義祖国を建設し、創造と変革の新たな歴史を迎えることができた。
主席は、人民の自主的な生活のよりどころを守り、彼らにより文化的で幸せな生活をもたらすため一生、為民献身の道を歩み続けた。
以民為天(人民を天のごとくみなす)を座右の銘とし、常に人民の中におられ彼らと膝を交え暮らし向きについて語り合い、彼らの意思と要求をそのつど政策に反映して実現した。
天気のよしあしにもかかわらず工場と農村、平野地帯や山間部を問わず人民の幸せのために歩み続けた主席の足跡は朝鮮のどこにもしみじみと記されている。
まさに、10代に革命に身を投じ30代に建国偉業を成し遂げ、ほぼ半世紀もの間国家元首として精力的に活動しながら祖国の自主権と尊厳をしっかりと守り、朝鮮を人民大衆中心の社会主義国家として建設した主席こそ、朝鮮人民が天のごとく仰ぎ従う民族の太陽、共和国の永遠なる影像である。
それゆえ、朝鮮人民は祖国と民族を
主席の逝去(1994. 7.8.)後、朝鮮人民は主席が生涯を終える最後の時期にまで執務していた錦繍山議事堂(当時)を錦繍山記念宮殿(現在、錦繍山太陽宮殿)につくり、主席を生前の姿そのままで安置し、主席が生まれた1912年を元年とするチュチェ年号と主席の誕生日である4月15日を民族最大のめでたい祝日とする太陽節を制定し、主席を共和国の永遠なる主席に高く戴くことを法化した。
高潔な理念、限りない献身によって偉大な革命生涯を送った
永遠なる人民の太陽
「自分の口に合えば受け入れ、合わなければ吐き出してしまうのがチュチェである」
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チュチェ101(2012)年11月のある日、
スケートリンクのホールに入った委員長は幹部たちに、スケートリンクを立派に整備した、翌年からは三伏にもスケートをする勤労者や青少年・学生の珍しい姿を見ることができたと喜んだ。
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